本の旅⇒INDEX(記事一覧へ)
コンラッド原作の映画『ロード・ジム』のキャストの充実ぶり
映画『ロード・ジム』
コンラッドの小説『ロード・ジム』の映画化されたのをDVDで鑑賞
『ロード・ジム』はある意味、人間の極限状態を描いた映画だが、こういう役はピーター・オトゥールが上手い
あの『アラビアのロレンス』並みに好い映画だが評価は低く、いや、日本でなんかまるで評価されてなくってよ
『アラビアのロレンス』は女が出てこなかったが、『ロード・ジム』も女の出番が少なく、唯一とも言える美女がまるで女らしい女でなく、同志の一人であり、生物学的に雌であるに過ぎないのだ
これは持論だが、女の愛らしさというのは、何の思想も抱かずに思いつきでしかないわがままや甘えを、どれほど男に享受させられるかに尽きる
ところがこの映画では美女こそが女の愛らしさは一切無く、確固たる意志と素朴な信仰心があるのみで、ピーター・オトゥールの方こそが女々しく食い下がってて、いざ男が決心を固めたとなったら、不本意でも決して泣いて取り乱してすがったりしない、そんな潔さがある女だった
そして一見して話の筋からそんなに重要とは思えないが、実はこれこそが根源的な問題提議なのでは?!・・・と考えさせられる場面に女たちが少し登場するのだ、それは子供が「ボクの母とその母とまたその母」なんて、4世代に渡る家族を紹介するシーンだが、これが父でなく母なのが深い
未開地でムラ社会を健全に営もうとしてる民は、日々の平和以外に何も望みはなく、その秩序が保たれるのは母系社会だからこそなのか、着実な日々の暮らしの中で、子供を産み育てるのに尽力する真っ当な社会、自身だけが生き残るための攻撃性や防御力ではなく、皆で共存するための慈しみが必須なのだよ、悲しいかな、現代日本ではありえない家族形態だ
既に数世代に渡る家族というのは、長寿になった分だけ増えてても良さそうなモノだが、若くして子供を持つコトが困難になってきたので減少傾向にあり、それがまた父系でも稀ゆえ、母系となると皆無に等しいだろう
この理想郷のようなムラ社会を背景に、対照的に汚辱にまみれた野心家の白人が数多く登場するが、どいつもこいつも単純な悪党キャラではないのが、この作品のもう1つの見所だと思う
悪人に落ちぶれたのは生まれつきではない、それぞれに人生を背負ってきた中で携わった人間性なのだ、それを一人一人描き分けてるのが素晴らしい、悪いヤツなんて所詮皆同じで、悪態をつきながら手段を選ばずに人生を楽しんでるに過ぎない、善人ぶって悲嘆にくれながら人生に憤ってるよりは、尤もらしいのかもしれないが・・・
その悪役の役者の中には、クルト・ユルゲンスやジェームス・メイソンがいたが、とにかく皆それぞれに強烈な人格で言葉の端々に人生を感じられて、むしろ人として魅力的でさえあった
役者が揃ってるといえば、ワリと重要な役ドコロで斎藤達雄と伊丹十三が出てるが、東南アジア(?)の親子を演じきってて、日本人ってもれなく単一民族だと思い込みがちだが、斎藤達雄なんかある意味どこの国の人間を装っても馴染むし、かといって、どこの国の人間と言われても疑わしい
邦画は全く観なくて日本人の役者には馴染みが無いが、こんな形で味のある役者を知るのは面白い
小説『ロード・ジム』
書きかけ