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紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見(2007年の年末)

トリストラム・シャンディ、1日目

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』が愉快過ぎて、他のディドロの作品を読むより先に、『トリストラム・シャンディ』が読みたくなった

それというのもディドロは英語に堪能だったので、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を英語で読んで、そのパロディ版(?)をフランス語で書いたモノが、『運命論者ジャックとその主人』だったからだ

実はまとめて購入した筑摩世界文学大系の中に、リチャードソンとスターンの巻があり、これが『パミラ』と『トリストラム・シャンディ』だったので、早速『トリストラム・シャンディ』を開いた

しかし思いの他ブ厚くて、軽いノリで読破できそうになく・・・まあ『運命論者ジャックとその主人』も長い話だったワリに、さくさく読んでしまったのだがな

それにしても「シャンディ」とくると、どうしてもKISSの『Shandi』が頭の中をぐるぐる回るのだが、不可思議な共時性に誘われて辿り着いたバーCURRENTで、リクエストもせずにかかってしまった!久々のCURRENTだったがマスターとはどっか通じてたらしい

2日目、エピクテトス

予定外に『トリストラム・シャンディ』を読み始めたが、その瞬間にロレンス・スターンの術中にハマった

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。

いきなりエピクテトスときたもんだ!しかもかなり読み込んでる気がしてたエピクテトスなのに、この句がどこに書いてあったかのか全く思い当たらず、気になって『キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス』を手に取り、「語録」も「要約」もざっと一通り目を通してみたが・・・見当たらなくってよ?

悔しいから見つかるまでじっくり「エピクテトス」を読み込むか?とはいえ、『トリストラム・シャンディ』はまだ1ページ目で、そこでもう道草食ってていいのか???

読書中に他の本を参照するのが嫌いではなく(むしろ大好きで)、『トリストラム・シャンディ』を読むきっかけになった、ディドロの『運命論者ジャックとその主人』も、寄り道をこそ愉しんで読んでたくらいで、1ページ目からこれだと心底楽しめそうな期待感で、胸がいっぱいになるのであった

3日目、冒頭の引用句

『トリストラム・シャンディ』を読み始めて3日経つも、未だ1ページ目を読み切れてなかったりして、しかも冒頭の引用句で停滞してしまってる有様だが、そこでたまたま購入したDVDをかけたせいで、更に停滞に拍車をかけてしまった

だいたい月に1~3本のDVDを購入してるのだが、購入基準は欲しいDVDリストの中からの適当なピックアップだ

次のような俳優の出演作をコレクションしてて・・・

今回は年末年始の休みを見込んで、いつもより多く、でも廉価盤ばかりを買い込んだ

そして今朝はいつもよりちょっと早く、3:45に目覚めたのをいいコトに『ロード・ジム』を観たが、この選択には先月、上映を見逃してしまったのが、ピーター・オトゥールの最新作『ヴィーナス』だったからだ

すると、始まっていきなり引用句が字幕に表示されたが、誰の言なのか、典拠がわからず、気になって映画の内容が覚束ないくらいだった

自分はどうも冒頭の引用句に納得が行くまで、本編には没入できない性分らしい

結局、映画は途中で放置して、『ロード・ジム』の原作を確認するコトにしたが、これが筑摩世界文学大系の中にあったりするんだわな、思い立った時にすぐに典拠に当たれる心地好さよ

『ロード・ジム』は元船員のジョセフ・コンラッドが、実体験を生かして描いた海洋小説だが、映画の冒頭の引用句は原作にもあるのだろうか?

信念は、人に是認されるとき、いよいよ確固たるものになる。

え、ノヴァーリスだったか(意外だ・・・)、でも引用句自体が違う気がして、再度、DVDで確認

地球の年齢が知りたくば、嵐の中の海を見よ

映画では原作者の言を冒頭の引用句に使ってるのだった、映画は必ずしも原作通りではないモノだし、この映画がノヴァーリスで始まる方が違和感あるし、でも何か締まらない気がしてこうしたのかね

コンラッドはポーランド出身のイギリス人で、独立戦争(※)においてシベリア流刑になった一家の一員で、『地獄の黙示録』として映画化された『闇の奥』しか読んだコトはないが、シェンキェヴィチに通じる力強さがポーランド魂を髣髴とさせる
ポーランドはロシアの領土となってたのだ

一般に熱狂的に受け入れられるってよりは、心に傷を持つ人間が、その傷を受けるに至った社会の掟に改めて震撼し、主人公の痛ましさに自己を投影して悲愴感を分かち合うような、共感を得難い、孤独が付きまとう作品だった

実際、映画化された作品にしても、『地獄の黙示録』はさまざまな物議を醸し出してるが、そういえば未公開53分を含んだ完全版が出てた、なんて思い出して今更また観てみたくなり・・・観た

そんなだから『トリストラム・シャンディ』は一向に読み進みまないが、そうして想いを俊巡させるのは至福の時だったりするのだよ

4日目、ロード・ジム

昨日、途中で放置してた映画『ロード・ジム』を最初から観直した

映画についてはコンラッド原作の映画『ロード・ジム』のキャストの充実ぶりとして、別ページにまとめた

それにしても冒頭に引用句があるってだけで、すっかり脱線してコンラッド三昧して満足してしまったが、肝心の『トリストラム・シャンディ』のエピクテトスは謎のままだ

5日目、ヒポクラテス

生殖の際の体液や気分によって生まれる個体の天分や一家全体の運命までもが決定付けられる

という話が『トリストラム・シャンディ』の第1巻 第1章に載ってるが、体液と体質についての関係が詳しく述べられてる本として、自分が思い起こすのはヒポクラテスである

『空気、水、場所について』や『人間の自然性について』の中で、どういう土地においてどんな生活をしてるかで、血液の多い少ないや「粘液性」だの「胆汁性」だの体質の傾向に違いがあり、それによってかかりやすい疾患や疾病が何であるか、しきりに述べられてる

ナイチンゲールもヒポクラテスの信奉者だったが、それくらいだからスターンの時代(フランス革命前)には、まだまだまかり通ってたのはむしろ当然かもな

そうしてなんとなくヒポクラテスを読み始めてしまったりして、『トリストラム・シャンディ』は手にとって5日目でも、未だ1ページ目だったりする

ちなみに『空気、水、場所について』や『人間の自然性について』は、岩波文庫収録だが重版未定状態

☆追記(2024/03)☆

重版未定状態だった岩波文庫の新訳が出てた!

単に新しい訳になったのではなく、収録内容がだいぶ変わってるので、詳しくはヒポクラテスのページ参照

6日目、デカルト

『トリストラム・シャンディ』はやっと2ページ目に進むが、動物精気と、寄り道したくなる語が出てきた、今度はデカルトの『情念論』だが、これがまた筑摩世界文学大系にあるのだよ

『情念論』第一部「7.身体各部およびその若干機能に関する略解」より

筋肉の運動は神経の作用であり

以上は概略、以下は引用

神経とはすべて脳に源を発する細糸または細管状のものであり、脳と同じくきわめて微妙な一種の気体ないしは気息をふくんでいる。これを動物精気(esprits animaux)と呼ぶ。

更に「10.動物精気はいかにして脳の中に作られるか」を要約すれば・・・

心臓で希薄化された血液の中で極めて精妙な部分が動物精気で、その実体はろうそくの炎のような敏速に動く極微体な物体で、これの一部は脳室へ入り他の一部は脳実質の気孔から神経→筋肉へと移動

以上、引用部分は伊吹武彦訳による(筑摩世界文学大系)

デカルトは身体を機械として扱ってるが、それを支配するのはあくまでも精神であるとしてて、この対極でありつつも一体である繋がりを、『情念論』で緻密に論じてるのだが以下のように簡潔に要約できる

精神の中に生じる情念が、精気という神経伝達物質のようなモノになって身体に作用する

そうしてデカルトを読み出すだけならまだしも、同じ本にはパスカルの『パンセ』も収録されてるので、気がついたら読み耽ってたのは言うまでもない

この速度で『トリストラム・シャンディ』を読んでたら、読み終わるのに何年もかかりそうだと懸念しつつ、ページ数を確認すれば350ページ弱だった

単純計算で1日1ページ読み進めれば、350ページだって1年程だが、1ページを5日かかって読んでる今のペースだと5年?!

文庫なら何も無ければ1日50ページは読めるから、350ページは1週間で読める量なのだがね

確かに筑摩世界文学大系は1ページが3段に分割されてて、その1段が文庫の1ページよりも緻密なので1週間は無理にしても、寄り道せずに読み進めれば1ヶ月あれば読めるはずだった

読むのに期限があるワケでもなく、寄り道読書をめいっぱい愉しむコトこそ、人生の醍醐味だと思えるので5年かかっても構わんがね

7日目、ホムンクルス

『トリストラム・シャンディ』第1巻 第2章で、また気になる単語に惑わされてるが、それが精子(ホマンキュラス)の小人ってヤツだ

この章全体に渡って古典生物学的ホムンクルス説が展開されてて、当時の最新科学がどう波及してたのか窺い知るコトができ、非常に参考になるくだりだ

科学は当然ながら正しい新説が尊ばれるので、古く間違った説は上書きされ、モノによっては古典~学などと呼ばれるようになって残り、余りにも荒唐無稽な説は抹殺されるのが常で、そうして闇に葬られた説の中には、魅力的な発想からきた興味深い説も少なくないのだが、ホムンクルス説もその奇異さにおいて、立ち消えてしまうのは惜しい説だ

どの本だったか失念したが、この説がたいそう不気味な図入りで、まことしやかに説明されてる科学の本があったのだ

鞭毛を持った精子の頭部に体育座りの人間が詰まってる図は、夢見が悪くなりそうな衝撃があって、忘れたくても忘れられず・・・しかし肝心の解説はうろ覚えなのが悔やまれる、が、うろ覚えながらも順を追って話を進めてみるべし

ゲーテの『ファウスト』に出てくるような、中世の錬金術師が作成した人造人間の小人のコトを元来、ホムンクルスと呼んでたワケだが、それがいつから、なぜ、精子の中の小人になったのか?

オランダのレーウェンフックが自作の顕微鏡で精液を観察して、生殖過程における精子の役割を初めて理解したのは、1677年のコトだった

しかし精子たる「精液微小動物」の頭部に小人が入ってて、それがホムンクルスだなんてのはナンセンスだがね、いや、レーウェンフックだって実際には、精子の頭部に人型が見えたワケではなくってよ、そこまで精度の高い顕微鏡が作れてなかったのは明白だって

それでもレーウェンフックがそう考えたのは、既にそういう考えを発表してた人物がいたからだが、そもそもレーウェンフックは商人であって、趣味が高じてフェロー(英国王室学会の名誉会員)に選抜されたのだ

当時はまだ写真が無かったので、レーウェンフックは様々な顕微鏡画を描いては、英国王室学会に送りつけてたのだが、これらが画期的な業績であると認められたのだよ

以上、要点をかいつまんで記載したが、参考にしたのは、『応用微生物学』の教科書と講談社ブルーバックス『科学1001の常識』

レーウェンフックと同じくオランダの昆虫学者スワンメルダムは、毛虫の解剖をしてたら蝶の形態が発現したとして、「存在胚種」なる説を1669年に提唱したが、これは「マトリョーシカ式に最初から入れ子状態」という考え方だ

また1674年にはフランスのマルブランシュが、著書『真理の研究』の中で世代の「無限分割」なる説を説いてる

リンゴの木がリンゴの種から生じるのは、そこに既にリンゴの木があったからで、大袈裟に言えば世界の終わりまでの分のそこに存在するべきリンゴの木は、総て最初の木に入れ子状態で存在してた

でもこのマトリョーシカ的な説は理論としては成立しても、科学的に(物理的に)実在するのは無理だと思われ、確かに神の存在でもなければありえんて

「存在胚種」や「無限分割」は、総括して「胚種の前成説」とされるが、これが精子の中に既に人型が入ってるとする、「ホムンクルス説」を裏付けてしまってるのだろうね

ディドロはこれらの説に反駁してて、『ダランベールとディドロの対談』の作中では、当のディドロとして登場して次のような意見を述べてる

一つの原子(アトム)のなかに完成された一匹の象がおり、この原子の中に完成された象がもう一匹いる、そんなことが果てしなく続く、なんて考えることを理性は嫌うからね。

これ「原子」ってのが微妙だが、まあ些細な部分はさておき、対話篇の役割分担として、ディドロに反対意見を述べるダランベールは、保守的な数学者として描かれてるので、換言すれば、一般的にはホムンクルス説がまかり通ってたってコトだ

訳注に「ビュフォンもディドロと同意見だった」とあるが、むしろディドロがビュフォンに影響されたのだろう

そうなるとこの辺りの事情に詳しい本としては、ビュフォンの著作となるワケだが、『大博物学者ビュフォン』の「第九章 発生から生殖へ」から、「第十章 生殖から生命の問題へ」で35ページに渡って記述されてた!まあここではビュフォンの正当な見解の方をこそ割愛するがね

スターン自身が信じてたのかどうかは定かではないが、『トリストラム・シャンディ』の作中では、さも最新の科学理論であり、読者は知らなかったかもしれなくとも、これこそが事実である、と恭しく記述されてる

そんなこんなで早朝から部屋中本だらけにして調べてるから、『トリストラム・シャンディ』が全然進まなくってよ

8日目、トロイ戦争

『トリストラム・シャンディ』の第1巻 第3章には、特に寄り道すべき句が出てこなかったので、そのまま読み進むコトができた

そして第1巻 第4章に進むと、まずモンテーニュの『随想録(エセー)』なんて出てくるが、特に引用してるワケでもないので飛ばして先に進むと

ホラティウスの言葉を借りれば「卵のはじめから」たどってゆけることを、この上なくよろこぶものであります。

つい最近『詩学・詩論』を読み返したばかりで、巻末の引用句集も記憶に新しいが、その中でも1番目に掲載されてたのがこれだ

Ab ovo.「卵から始める」

『詩論』147行目にあるのだが、この辺りには詩(物語)の冒頭句と実際の物語との調和や、話をどう始めるべきかとそこからどうやって核心まで導くべきか、ホメロスを例えに挙げて説明されてる箇所、詩劇は物語の始めからきちんと順を追ってるだけでは、ちっとも面白くないというような意味だ

(ホメロスだったら)トロイアー戦争を双子の卵から始めることもしない。

トロイ戦争を語り始めるのに、その要因となったヘレネが卵から生まれる場面からは始めはしない、つまり、ホメロスは冗長ではない(から面白い)と述べてる

ホメロスの『イリアス』の場合、アキレウスとアガメムノンの戦利品の取り合いから始まるが、これは戦いが10年目に入ってから始まってるのである、古代ギリシア~ローマではトロイ戦争は人口に膾炙してたので、戦争が始まる前から『イリアス』の冒頭部分のアキレウスの怒りまでは、誰だってわかりきってるコトだったから省いて、そのクライマックスだけを謡いきった『イリアス』には、退屈すべき部分が全くないのだ!全編が最高に面白いから『イリアス』は世紀の傑作なのだ!!そんなトコロがホラティウスのホメロス評価だ

付け加えれば『オデュッセイア』においても、『イリアス』の気になる後日談(つまりトロイ陥落)を回想シーンに盛り込むコトで再現してたりして、確かにホメロスのこの2大叙事詩の構成は素晴らしい

ちなみにヘレネが生まれるのがなぜ双子の卵なのか、簡単に説明しておこう

ゼウスがスパルタ王妃レダに横恋慕して、白鳥に化けて油断させといてゴーカン、ゼウスの子供を身篭ってしまったレダは、2つの卵を産み(さすがゼウスが白鳥に化けてただけあってか?)、その1つからはヘレネとクリュタイムネストラの姉妹が生まれ、もう1つからはカストルとポリュデウケス(ポルックス)の兄弟が生まれた、故に双子の卵(あるいは2つの卵)なのだ

トロイ戦争譚をヘレネ誕生から始めなかったから、ホメロス(の『イリアス』と『オデュッセイア』)は素晴らしい、そんなホラティウスの見解には概ね賛同できるが、その他のトロイ戦争関連の書物などがだいぶ散逸してしまって、史料に乏しくなった現代人からすれば、卵から始まった物語だって存分に愉しめたと思うがね

とはいえ、ホラティウスはホメロスについて、トロイ2連作を絶賛してるだけでなく、稚拙な詩句については次のように表現してる

すぐれたホメロスも居眠りすることがある

これも諺になってたりするのだが、ホラティウスはセンスのいい言い回しが多いから、後世に随分と引用されてるのだね、『ギリシア・ローマ名言集』にも数多く収められてた

それにしても改めて気付いたが、ホラティウス自身は「卵から始まる」のはよろしくないとしてて、スターンの見解は全く逆なのだが・・・これはワザとだわね

9日目、カンディド

やられた

年内はフランス啓蒙思想家を片っ端から読破したかったのに、それが『トリストラム・シャンディ』を読み出して、しかも読み始めてもう10日目だってのに、まだ第1巻 第9章ってどうよ?

しかもまた躓いた・・・

かがやく月の女神よ、おん身もしカンディードとキューネゴンド女史の身の上に心身を労して、なお余力あるならば、――願わくば、トリストラム・シャンディの身に起こることも、またおん身の庇護下に包容したまわんことを

そうきたか、先に『カンディド』読んでおけばよかった

ここでまた寄り道して、元の木阿弥(?)のヴォルテールの『カンディド』を読んでしまう

何が元の木阿弥かって、自分を『トリストラム・シャンディ』に導いた、ディドロの『運命論者ジャックとその主人』と同じ本に、『カンディド』も収録されてたのでね

ちなみに「元の木阿弥」の由来も調べてみた

一説に、戦国大名の筒井順昭が病死したとき、その子順慶が幼かったので、死をかくして順昭に声の似た盲人木阿弥を替え玉として病床に置いた。順慶が成長したのち、順昭の死を公にし、木阿弥はまたもとの生活にもどったという故事から

そしてまた『トリストラム・シャンディ』を閉じ、他の本を読み始める寄り道読書に入るのだが、閉じる時にある見慣れた名がつい目に入ってしまった

ロシナンテ・・・明日は『ドン・キホーテ』か

10日目、ロシナンテ

『トリストラム・シャンディ』の第1巻 第10章に、産婆を救った牧師が乗ってた馬の話、(またどうしてそんな馬に乗ってるのかの話)があり、その中でその馬に例えられてるのが、 『ドン・キホーテ』に出てくるロシナンテで要するに駄馬なのだ

まあドレの表紙からはそうは見えないが、『ドン・キホーテ』の第1篇 第1章にあるように、ロシナンテという名前自体が駄馬を意味してるのだよ

『さきの痩せ馬(ロシナンテ)』と呼ぼうと思いついたが、これは彼の見るところでは、気高く、口調もよく、しかも現在の身分になる前に駄馬(ロシン)だった身の上を現わしたばかりか世のあらゆる駄馬の中でまず筆頭だということをこよなく現わした名前だった。

ドン・キホーテがドン・キホーテと名乗るコトにする一週間前に、馬の名がロシナンテと決まったのだが、馬に名付けるのには4日悩み、自らの呼称には1週間「も」悩んでる、というコトだ

ドン・キホーテの眼にはロシナンテは駄馬には見えておらず

アレクサンドロス大帝のブケフェルスも、エル・シードのバビエカもてんで足もとにもよりつけないと思われた。

と映ってたらしい

ブケフェルス・・・スペイン語だとそうなのかな、ブケファラス、ブーケファラス、ブケパロス・・・そんな読み

オリバー・ストーンの『アレキサンダー』では、理想的なブケファラスだったな

エル・シードってのは『エル・シードの歌』に出てくる騎士の名で、バビエカはその愛馬の名らしい(口惜しいかな未読である)、スペインの高名な騎士物語のようだが、でもスペインの騎士といえば『ドン・キホーテ』だ

『ドン・キホーテ』は有名になり過ぎた感もあるが、日本では名前は知れてても実態はどうだかね、このアメリカン・ジョークにも劣らぬギャグの通じなさと、冗長さを堪えて読み切れる強者は多くなかろうて、もちろん自分も途中で挫折した口だ

でもこういうのこそ老後に読みたい一冊だ

☆追記(2008/04)☆

エル・シードはフランス語ではル・シッドだったと気付いた

11日目、トリストラム

トマス・ブルフィンチの『中世騎士物語』の、第12章「トリストラムとイゾーデ」にはトリストラムの名について、次のように説明されてる

その子供は生れた時の憂愁にとざされた事情からトリストラム*と名を呼ばれた。

トリストラムに*(訳注マーク)が付いてるので、訳注を参照すると以下のようにあった

トリストラムはトリストレムとも、トリスタンとも、トリスタムとも呼ばれる。

これではなぜそう呼ばれるのかは不明瞭だが、ローズマリー・サトクリフの『トリスタンとイズー』では、日本人にもわかり易く説明されてた

彼は子供に、悲しみを意味するトリスタンの名を与えた。

悲しみを表現する語は英語では sad しか思い浮かばぬ

トマス・ブルフィンチはアメリカ人だし、ローズマリー・サトクリフはイギリス人なので、英語圏には違いないだろうと英語の辞書で確認してみた

Tristramは男性名
【アーサー王伝説】トリストラム, トリスタン(恋人はIseult [Isolde];別称Tristan).

付近の語も当たってみるも、英語には語源となった悲しみの意味をする単語は無かったが、ドイツ語事典で調べてみるとtristは形容詞だった

「悲しい」「悲惨な」「哀れな」「陰鬱な」「荒涼とした」

フランス語辞典でもtristeは形容詞だった

「悲しい」「いやな」「つらい」「貧弱な」

ケルトの伝承ならケルト語の語源もそうなのか?気になりつつもそのままにしてたのだが、『トリストラム・シャンディ』の第1巻 第19章に新事実があった!

ラテンのトリスティスから出て「悲しみの、悲しめる」の意を持つ

それにしてもサトクリフ版の表紙の影響で、トリスタンは黒髪ストレートのロングヘアーで、竪琴と弓矢を携えた姿を想像してたので、『キング・アーサー』でのマッツ・ミケルセンのトリスタンは、ムサい感じがして観始めた時は微妙だったが、他が酷いのと比して観終わってみたら全然美しいと思えた

Tristan

『トリスタンとイゾルデ』での巻き毛のトリスタンも、最初は奇妙な気がしてたが、ジェームス・フランコも悪くない

Tristan

でも自分の中ではジョナサン・リース・メイヤースが、『アレキサンダー』のカッサンドロスのままで、イメージぴったりだったんだけどね

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